
──まずは、柳田さんが音楽に目覚めたきっかけを改めて聞かせてもらえますか?
柳田:小学生の頃はずっとポップスを聴いていました。両親も歌が好きで、2人でよくカラオケに行っていたんです。中1の入学祝いで、もう亡くなった祖母がアコギを買ってくれて。そこから毎月『Go!Go! GUITAR』を買って、ひたすらカバーしていましたね。
中2になると、仲のいい7〜8人のうち4〜5人が急にギターを始めたんですよ。その流れで「バンドやろうぜ」となって、ギターばかり3〜4人いるバンドを結成しました。当時『閃光ライオット』(10代のアーティストのみによるフェス)のオーディションにデジカメで撮った動画を送ったんですけど、一次審査で落ちましたね(笑)。
──高校に進学してからも、そのバンドは続けていたのですか?
柳田:はい。当時のドラムの親父さんが建築士で、おばあちゃんの持っていた山の空き家を改装してスタジオにしたんです。畳を全部取って床を張り、吸音材を敷いて、ドラムセットやアンプ、ミキサーやスピーカーを置いて。完全に秘密基地でしたね。エアコンもなくて、真夏は扇風機だけで全員ほぼ裸(笑)。叫んだり暴れたり、わけわからんテンションでひたすらカバーをやっていました。
高校を卒業して僕は九産大に進学しましたが、他のみんなは宮崎で就職してバンドは自然消滅。当時は「バンドで食っていく」とか全く考えてなかったですし、僕もずっとバッキング担当のリズムギターだったので、「自分が歌う」なんて想像もしていませんでした。
──大学で軽音サークルには入らなかった?
柳田:体験入部で部長とちょっと揉めたんです(笑)。それもあり、「音楽は仲間と遊ぶものであり、自分には違うのかもしれない」と思って一度音楽から離れました。そんなとき出会ったのが「ツイキャス」という配信アプリです。
当時は今ほどSNSも普及してなくて、まだ黎明期でした。そこに常に1000人くらい集める配信者がいて、観てみたら自分と同い年の男が弾き語りをしていた。その姿に衝撃を受けて調べたら、群馬のIvy to Fraudulent Gameの寺口宣明だったんです。シューゲイザーやポストロックを軸にしたバンドで、それまで僕はハードロックばかり聴いていたから「なんだこの音楽は!」と衝撃が走りました。
──それがきっかけで、柳田さんも弾き語りをするようになったのですね。
柳田:はい。ツイキャスで配信するようになったら、とにかく歌うことが楽しくて仕方なかった。大学1年の頃はまだ真面目に通っていましたが、1年の終わりには完全に弾き語りにハマって、2年は丸一年ほとんど大学に行かず……(笑)。ツイキャスで出会った仲間と一緒に大阪の梅田駅前や東京の新宿駅前で路上ライブをしたり、代々木や高円寺の地下のライブハウスでイベントに飛び入りしたりしていました。
そのタイミングで、黒川から「バンドやろう」と声をかけられたんですよ。彼とは軽音サークルの体験入部のときに「一緒にバンドやろう」と話していたんですけど、気づいたら黒川が別のサークルでバンドを組んでいて(笑)。それで「やっぱり自分はバンドじゃないのかな」と思い、シンガーソングライターでやっていこうと決めていたのに。
──複雑な気持ちですよね(笑)。
柳田:そうなんです。黒川のバンドがうまくいかなくなって、ちょうど僕がツイキャスで活動を広げていたタイミングで、彼から「最近調子いいよね」って(笑)。それが、すべての始まりでした。
バンドへの憧れが、根っこにはずっとあったんでしょうね。特に大きかったのはIvy to Fraudulent Gameの存在。彼らのライブを見たくて福岡から東京まで遠征したこともありましたし。同世代が全力で音楽に挑んでいる姿に励まされたというか、彼らはバンドのロマンを再確認させてくれたんです。
──当時、目標にしていたボーカリストはいましたか?
柳田:弾き語りを始めた頃は秦基博さんに強く影響を受けました。めちゃくちゃコピーしたし、歌い方も参考にしていましたね。それとPay money To my PainのKさん。計算された歌い方ではなく、その瞬間の感情が直結していて、不安定さも含めて唯一無二。「これだ」と思いました。美しく計算された歌ももちろん素晴らしいのですが、ライブにおいては突発的にしか出ない声にこそ心を動かされる。自分もそこから多くの武器をもらいました。いわば、「閃きの表現」を歌に持ち込むかっこよさをKさんから学んだんです。
──柳田さんは、ライブのMCでもよく「泥水を啜るようだった」と下積み時代を言っていますが、一番辛かったのはいつですか?
柳田:辛い瞬間は年々ピークが大きくなっていく気がします。やりたい目標が大きくなればなるほど、壁も高くなるというか。でも一番「絶望」や「諦め」を感じていたのは上京して1〜2年後、前の事務所を離れて自主で1年間走り続けた時期ですね。東北沢のローソン前で、「俺たちはいつまでバンドを続けるんだろう」みたいな話を黒川としたのを覚えています。彼は教員免許を持っていて、いざとなれば食べていける。でも当時の僕はそれを「保険があるからいいよな」と卑屈に思ってしまって。ちょっと気持ちも荒んでいたんですよね。メンバーにも辛く当たったりして、空気があまりよくなかった。
──それでも4人で乗り越えてきた。
柳田:そうですね。バンドなんてメンバー間のいざこざで解散することも多いし、10年続くこと自体が奇跡だと感じます。何より周りの人たちに助けられました。だから神サイが10年続けられたのは、「運」と「出会い」に尽きる。素敵な人たちと出会えたから今がある。年々その重みを感じますね。
作品を軸にしつつ、柔軟に歩んできたことも大きかったなと。例えばコロナ禍でツアーが飛んでライブができなくなった時期は、「音楽以外でも何かやろう」と4人で話し合って「肝試しやミニドラマの動画をYouTubeにあげたりもしました。大きく広まったわけではないけど、とにかく火を絶やさないように試行錯誤した。その時間があったからこそ、今につながっていると思いますね。
──結成から10年経った今、バンドメンバーにはどんな思いがありますか?

柳田:吉田は、俺とは一番対照的で人の輪に入るのが本当に好き。打ち上げにも必ず出て、先輩や後輩からも可愛がられる。昔は暗くて髪の毛で顔を隠しているような子だったけど(笑)、バンドが認められるようになって自信をつけてからすごく垢抜けた。末っ子気質で懐に入るのがうまいし、自分にないものをいろいろ持っているから信頼していますね。
桐木は、普段は物静かで冷静だけど、実は誰よりも熱い。武道館で「ファンが生きる理由になってます」みたいなことを、さらっと言った時には俺はその場で泣きそうになりました(笑)。ベロベロになった打ち上げ帰りに「俺、お前のこと好きだからな」って抱きついてきて(笑)。そのとき初めて心の底にある想いを知れたというか、静かに魂を燃やすやつなんですよね。
黒川は唯一の同い年で、一番友達に近い関係。でも近いがゆえに音楽的に衝突もよくしました。それでもずっと歩み寄ってくれたし、時には「そのメロディーあんまり良くないね」とズバッと言ってくれる。多分この先、死ぬまで友達でいてくれるだろうなと思っています。ライブ後は必ず映像をチェックするし、打ち上げでもAirPodsで自分のプレイを見直すぐらいの努力家。だからこそスタッフにも愛されるんでしょうね。
──今回、神サイのお気に入り曲を10曲あげてもらいました。どんな基準でセレクトしたんですか?
(修羅の巷/火花/Division/六畳の電波塔/ジュブナイルに捧ぐ/illumination/夜間飛行/シルバーソルト/徒夢の中で/スケッチ)
柳田:基本的には「好きだから」ですが、結果的にメッセージ性の強い曲ばかりになりました。恋愛ソングはほとんどなくて、唯一近いのは「シルバーソルト」と「徒夢の中で」くらい。でもこれも僕の中では恋愛ソングというよりタトゥーに近い感覚です。忘れてはならない記憶、それを音に刻んだ作品です。だから「幸せな恋愛を歌って自分も幸せになれるか」と言われると、そうじゃない。むしろ過去や痛みを丸ごと作品にして、それが世間に響いたときにこそ音楽の本質があると信じています。
「illumination」や「ジュブナイルに捧ぐ」は音楽や生きることへの思い、「六畳の電波塔」は「人を傷つけないでほしい」という願いを込めました。「修羅の巷」や「火花」は、自分を奮い立たせるための歌。どれも突き詰めれば、自分に言い聞かせている歌です。それで誰かを励ませたり、寄り添えたりしたら最高ですね。
──神サイをやってなかったら、今頃どうしていたと思いますか?
柳田:……正直、何やってもダメだっただろうなと。ハンバーガーショップは1日で辞めたし、焼肉屋さんは1ヶ月で飛んだし、ピザ屋さんは事故って辞めて、カラオケも初日に1時間遅刻。。本当にダメ人間で、普通に生きている人たちがなんであんなにちゃんとできるのか不思議でした。だからこそバンドに居たいんです。一人だと一瞬で落ちていくけど、メンバーやチームが自分の足りない部分を補ってくれる。個人競技は向いてなくて、みんなとやるから成り立つというか。自分にとって神サイは生命線であり、最後の砦ですね。
──最後に、10年前の自分に声をかけられるとしたら?
柳田:「そのままでいい」と言いたい気持ちもあるけど、違うルートも見てみたい気もします。例えば一人の人を愛し続ける人生とか。インディーズ時代なんて時間は山ほどあったから、後先考えずに海外を回ってもよかったかもしれない。でも当時の自分は誰に何を言われても聞かなかったと思うんですよ。本当にクソガキだったから。「自分のやりたいようにやれ」としか言えないですね。それで歩いた道を、自分で正解にしていくしかない。それが今の自分の答えです。